昭和五十七年三月二十四日 朝の御理解
御理解第三十四節
ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。
昨日はあのように有り難い霊祭を奉仕させて頂きました。御祈念中にちょっと心に掛かることというのは、最近何人もの方から、この水子の供養の事とか、助かりの事やらをお取り次ぎさせて、まあ私は愚にもつかない事だけれども、やはり自分の心の良心の阿責とでも申しましょうか、それに苦しんでいらんところにたくさんのお金を使ったり、いらんところに遠いところ迄供養を御願いに行ったり、まあそれこそ威されるような事を云われて、心が落ちつかない、というて御願いに見えた人達が次々にございましたので、昨日私、その事がちょっと心に掛かったんですよ。私自身も、その水子のそういう、昨日は御霊様の助かりを願い、御霊様のいよいよ喜びの御霊、安心の御霊として、おかげを頂いて行かなければならない手だてをま、させて頂くのでございますから、その水子の事をちょっと私が感じたときに頂いたのが、”小さいおたまじゃくしね、蛙になる前、小さいかわいらしいおたまじゃくし。そのおたまじゃくしからこう手が出たり、足が出たりして行くところ”を頂きます。
云うなら目が出て手が出て足が出るというが、そこにまあ、ま、昔風な言葉を使うと、ま、不義密通を、というような事になるかもしれませんですね。出、そこでなら、産んではならない子供が宿ったとこう云う、それでそれをまあ処置する。それはその時代時代でやはり、今は堕胎をすることなんかは、もう当たり前で出来るんですけれど、以前は堕胎罪という大きな罪になったわけですよね。
これは人間の世界であったり、いわゆる人道的であったり、いわば又は道徳的な考え方からすると、それは良くない事だとこう思いますけれどもね。けれども結局止むに止まれん結局そういう事になって、まあ云うなら、初めの間はかわいらしいおたまじゃくしが、手が出て足が出て、あれはなんていうでしょうかね。そしてそれがあの、カエルになるまでの過程を頂いたんですけれども、人道的とか、道徳的とか、ということが私共の観念の中にありますから、良心的な阿責やら、苦しみやら、又は可哀想な事をしたという情が出てくるわけですけれども、神様はね、云うならばこの世に出てくるまでは人間の魂、人間としては認めておられないのです。
ですから、あの”土に返す”と云うことを頂いた。その事について、だから生まれでてからそれを命というかね、魂と云うか、それが頂け備わってからなら別として、でないのはま、ね、結局怖くもないものを怖いと心に阿責に苦しむ。その苦しむ事、事態がおかげにならんのです。
今日はね、神の云うことを聞く者が少ない。有り難く頂いて帰れば船にも車にも積めぬ程の神徳があると教えられる。私共がいわゆる観念を捨てよというのは、そういう場合であって、なら合楽教会が八年前にね、表行全廃。
私にとってはもうその表行そのものも、大変なま、神様へ向かうための精進であると思い込んでおったんですからね。断食もすりゃ、水行もする。様々な表行をさせて頂いたけれど神様はね、表行を辞めよと頂いてね、すっきりとはあ、分からん事を云いながら、どうしてこんな事がいつまでも分からなかっただろうか、と思ってすっきりしたね。
神の云うことを私が聞いた。
しかもすっきりと頂き止めた。おかげで合楽の御比礼というものは、倍増していったと、ま、そがしこ神の云うことを素直に聞いてね、それを素直に守っていくところに、そういうおかげが受けられる、その水子関係で悩んでおられる人達がね、自分の心の阿責にさいなまれておるという人達がね、そう云うことはないですよとね。
天地の親神様はまあだ、人格として認めておられない、いわば土に帰るのだ。それが良いこと悪いことは別としてです。それこそ詫びれば許してやりたいのが親心と、おっしゃるから詫びてすっきりとね。可愛らしいおたまじゃくしのようなものなんだがね、心の阿責をとか、人情をそこに使わずに神様がそう教えて下さったんだからと、こういただいてスキットする事がおかげになる元。
親先生は、ああ云いなさるけれどもやっぱ、罪になっとうと云うから罪になるのであり、心にそうした阿責があるからやっぱ、自分の心が自分でいじめておるからね、結局そこには良いおかげは宿らないということになるのですね。
勿論日々御教えを頂いて、御教えを行ずるということなんですけれども、例えば、今申しますように、表行全廃のこととか、水子の事について、悩みやら良心の阿責を持っておる人達が、又他の宗教ではそれをとにかく、水子のたたりは怖いですよなど、云われてもうそれこそ、戦々恐々、本当にやっぱり十万でも、二十万でも出して供養を頼むとね。それでもまあだ、心が落ちつかないと云うような事では、だからおかげが受けられぬ。
真の信心をさしてもろうて、真の御教えを頂くと、心がすっきりしてくる根。私はね、先生はああ云われるけれどもというて、けれどもをつけてそれを改まれなかったら、だから徳にもならなければ、勿論おかげにもならんね。船にも車にも積めぬ程の神徳。
例えばな、合楽でね、私がこれを申しましても、表行全廃と云うても、それでもです。それでもやっぱり表行してはならんとおっしゃってないからというて、やっぱその辺のところでいつまでも、グズグズしておる人達がほとんどですね。表行してない人はもう、別なんですけれども、表行でもすると云うからにはやっぱ、神様は向ける心も強いのですから、尊いのですけれども、それでは、いわゆる金光大神は大嫌いじゃとおっしゃっるのだから、それをすぱっとこう辞めさせて頂くその心が大事なんです。
神の云うことをすきっと聞く。悪いことでもない、ね、それが罪になる事でもないものを自分で罪を作ってしまう。悪いことでもないのに、自分の悪いことと決めてしまうから、それが罪の償いをしなきゃならない。悪いことで、と自分で決めておるから、それに対する云うならば、心の阿責というものから逃れる事は出来ないのである。
信心とその血のところをね、もう本当に御礼を申し上げねばならない事に、愚にもつかない。云うなら観念でそういう意味で、いわば合楽の信心は道徳的でもなからなければね、人道的というものでもない。ねえその道徳的とか人道的であってはならないと、あって良いのだけれども、そのうえのもうひとつ越えた御教え、いわゆる超道徳的とでも申しましょう。その超道徳的にこちらがなれたときにです、今までね、罪の意識にさいなまれておったことも、いわばおかげとして御礼が云えれる。
今日私はそういう意味でね、勿論教えを頂いて、それを教えを守るということなんですけれども、そう云うことは教えではないように思うておる教会があるですね。表行全廃しなさいといったような、教えじゃないごともう根本的にです、それでは神の助からない、氏子も助からん。
地団駄踏んで、どうぞどうぞと云うて、断食したり水をかぶったりして頼むから、まあおかげにはなっても徳にはならないね、それでは神様も悲しみ、神様も苦しむ。ま、そう云うような事が、色々私共の生活の上にあると思うんです。
昨日私はその御霊様も、もう水子の事なんか大体その、問題にしちゃならない。せんでいいんですね。こんな事情、月流しおかげを頂きますからとかね、もう処置致しますからと、まあお詫びをさせて頂いたらもうそれでよいのである。これは丁度おたまじゃくしのようなもの。それから手がでたり、足がでたりしても、まだ、それはいい。まだカエルという無駄になっていない。
何故この御理解を下さったかと云うと、皆さんもご承知でしょうけれど、私の一番嫌いとか怖いとかといのはカエルです。ならカエルはかみつきもせんでしょうが。そういう意味で下さったんだと思うです。堕胎をしたりね、水子を流したりすると怖いと、怖くもないものを怖いと思うとると、云うお知らせであったと思うです。 どうぞ